この家の主である91歳のおじいさんは、イスマーイール派の創始者の絵に向かって、小声で唱えながら礼拝し始めた。横で薪がパチパチと燃える音に、祈りの声がかき消される。談笑していた若者と僕たちは、それを静かに見守っていた。フンザ帽と呼ばれる、伝統的なウール製の丸い帽子を被るその姿は、彼の敬虔さと郷土愛の深さを象徴しているかのようだった。
礼拝が終わると、ウルドゥー語で僕たちに何かを伝えようとしていた。若者たちに英語で通訳してもらう。
「僕はもう戦争をしたくない。」
彼はかつて、このパキスタン北部地域において、インドと戦う軍人だったという。
パキスタンにとって、安全保障は非常に大きな課題だ。周囲をインド、中国、アフガニスタン、イランという国際政治上重要な4つの国に囲まれており、常に情勢に注意を向けなければならない。防衛費が高額になってしまうがゆえに、国内の教育や医療、インフラへの投資が妨げられている。
東に面するインドとは、ヒンドゥー教とイスラム教という宗教の違いを発端として、70年以上にわたって幾度となく戦争をしてきた。パキスタン北部には、カシミールという今もインドと領有権を争う地域がある。滞在しているフンザは、このカシミール地方のパキスタン支配エリア(写真の緑色)に当たる。
現在は停戦状態で中央に管理ラインが引かれ、それぞれのエリアを統治しているが、今もなお解決には至っていない。2008年に、パキスタンのテロ組織によるインド・ムンバイ同時多発テロが起こった際は、インドとの関係が悪化し両国に緊張が走った。
もう1つの脅威は、西に面するアフガニスタンだ。パキスタンは、140万人以上のアフガニスタン難民を抱えている。さらに近年は、武装勢力タリバンの統治から逃れるアフガニスタンからの不法入国者が急増している。
しかしアフガニスタン国境では、パキスタン・タリバン運動(TTP)と言う反政府武装勢力による自爆テロが相次いでおり、その多くがアフガニスタン人によるものとされている。
この件を受けて、パキスタンは2023年、アフガニスタンからの不法入国者を強制送還すると発表した。強制送還されれば、帰国したアフガニスタン難民が、タリバンによる人権侵害にさらされるリスクがあるとして、世界的に懸念されている。
しかしその不法入国者の中にテロリストも紛れている事実を考慮すると、綺麗事も言っていられない。
若者の1人のウッラーは、「インドもアフガニスタンも敵ではない。皆友達」と話していた。
かつての戦地にも近かったこの村では、戦争をしたい住民なんていないのだろう。
あっという間に時間が過ぎ、夜が更けてきたので、そろそろお暇することにした。
最後に、「フンザは治安が良いが、都市部に行くほど治安が悪くなる。特にカラチは危ないから気をつけて。料理はカラチが一番美味いけどな」とアドバイスをくれた。
周りは街灯もない田舎道で、宿までの帰り道も定かでなく、どうしようかと悩んでいたところ、ウッラーが車で送るよと名乗り出てくれた。しかしウッラーもすでに結構酔っ払っていた。
「大丈夫、大丈夫」と笑っていたが、こんなところで事故って死ぬわけにはいかない。
最終的に、ウッラーではなく別の若者が無事に宿まで送り届けてくれた。
宿に到着すると、宿の前にいたスタッフに、「なんか良いもの食べられたか?」と聞かれたので、「フンザ・ウォーターを飲んだ!」と自慢げに話したところ、
「なぜそれを知っている!どこで飲んだんだ!」と笑いながら驚いた表情を浮かべていた。
はるばるフンザに来て初日、村の大家族の家に迎え入れてもらい、幻の酒を飲み交わしながら語り合い、心の底から満たされた1日だった。
パキスタンでは近年、イスラム国の関連組織の流入や、反中感情に伴う過激派による自爆テロが増えるなど混乱が続いており、住民が願う平和の実現は依然として遠い。しかしながら2024年1月には、パキスタンとイランが安全保障協力拡大で合意するなど、少なからず進展も見られる。パキスタンの平和と安全保障に関する今後の動向に、国際社会から注目が集まっている。
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