最果てのゴジャールへ【カラコルムハイウェイ】vol.8

旅の記録

翌朝、窓に差し込む光で自然に目が覚めた。それはもう既に日が出始めていることを意味していた。
急いで毛布から飛び出し、宿の屋上へと続く階段を駆け上がる。

日の出の瞬間こそ間に合わなかったが、最初山の頂点部分に当たっていた光が、徐々に山肌全体を照らしていく様子を眺められた。

フンザに到着して2日目の今日は、タクシードライバーのアシュラフと相談した結果、フンザを出発してカラコルムハイウェイをさらに北上し、中国との国境があるクンジュラブ峠まで行って、その日のうちにフンザまで帰ってくる予定となっていた。

予定通り宿を朝出発した。この辺りの標高は2,500mをすでに超えているため、気温は0度を悠々下回っていた。靴底を貫通して全身が凍てつくような寒さに、ユニクロの薄いダウンジャケットとニット帽のみという自身の防寒の甘さを悔やむしかなかった。
車内は暖房もあまり効かなかった。というよりあまり効かせられなかった、と言う方が正しいかもしれない。このところのパキスタンはインフレが深刻で、ガソリン価格もたった1年で2倍になっていた。訪れた当時は約1ドル/Lと、日本の5分の1程度の物価の安さにも関わらず、ガソリンだけは日本に近い水準になっていた。暖房のつまみを絞るドライバーの様子から、ガソリンをセーブしたい気持ちがよく伝わってきた。実際、過去のパキスタン旅行記を読んで調べたタクシーの運賃相場が、今回の旅では全く当てにならず、ガソリン価格を反映してかなり高騰していた。

この先さらに標高が高くなり、気温が下がっていくことに不安を覚えているうちに、最初の休憩地であるアッタバード湖に到着した。湖はまだ陽の光に照らされておらず、水面は深い青に染まっていた。

アッタバード湖は、2010年に発生した大規模な地滑りで、川がせき止められたことによってできたもので、15年前には存在しなかった湖である。この地にあった村とともにカラコルムハイウェイが水没して一時は道路が無くなったが、PAK-CHINA FRIENDSHIP TUNNELと名付けられた、中国主導で建設されたトンネルにより、2015年にカラコルムハイウェイは再開通することとなった。この地域のインフラは、中国の恩恵を多大に受けている。

現在は冬季でオフシーズンだが、夏には避暑地としてパキスタン国内から観光客が多く訪れるそうだ。湖ができて以来、湖畔にリゾートホテルも建設された。水上にはウォーターボートが数多く浮べられていた。
「船に乗ってみるか?」と聞かれたが、寒さでそれどころではないためお断りした。当然誰も乗っている人はいなかった。

ここで朝食を取ることになった。
街は閑散としており、開いている店は1つだけだった。とにかく体を温めたいと思い、卵焼きとチャイ、そしてチャパティのセットを注文した。冷えた身体に熱いチャイが沁みて生き返る。
食事中、店に入ってくる野良猫を足で蹴って外に追いやる店員を眺めていた。資源が乏しく環境が過酷な冬をこの猫はどうやって生き伸びているのだろうか、そんなことを考えていた。

食事を済ませ、アッタバード湖を出発して北上を開始した。日が高くなるとともに車内も暖かくなっていき、同時に寒さへの不安が消えていった。

道中、小さな集落を1つ、また1つと通過していく。ゴジャールもしくは上部フンザと呼ばれるこの辺りは、数世代前にアフガニスタンから移住してきたワヒ族という民族が多く住んでおり、イスマーイールの信仰が強い地域だ。

ドライバーのアシュラフは、車内でインド音楽を流していた。インドのヒンドゥー語と、パキスタンの公用語であるウルドゥー語は、使用される文字は異なるものの、実は基盤となった言語が同じの兄弟言語であるため、語彙も重なるものが多く、パキスタン人でもインド音楽を楽しむことができる。パキスタンのSpotifyランキングを見ると、インド人アーティストが上位を占めていた。長年戦争をしている国同士であっても、音楽は国境を越えているようだ。

やがて吊り橋に辿り着いた。どうやら世界一危険な吊り橋と言われている橋らしい。
橋の下を流れるフンザ川は、日光に照らされて澄んだターコイズ色に輝いていた。バックには先端に氷を纏った険しい岩山が連なっていた。

渡るにはライフジャケットが必要。過去に1人若者が橋から落ちて亡くなったそう。
足1つ分以上の幅が空いている

吊り橋の次は、氷河が有名なパスー村を訪れた。氷河の先端の山々の中には、標高が7,700m近くに達するものもあるという。角のように空に向かって尖る岩山が連なり、至るところで山の斜面が削られ、土砂や岩が扇状に堆積していた。この目の前の壮大な眺望を形づくるのにどれだけの時間がかかったのだろうか、息を呑むような自然の美しさだった。

伝統衣装のシャルワールカミーズを着てフンザ帽を被るドライバーのアシュラフ

近くの池の水面に反射する雪山を眺めていたところ、バイクに乗る住民に話しかけられた。
「日本人か?20年前までは日本人もここにたくさん来ていたんだよ。今では全く見なくなったが」

こんな最果ての地を日本人が訪れていた時代があったとは驚いた。観光客が減った理由はなんとなく想像がついていた。
「9.11の後からだよ。人がこんなに減ったのは。」

2001年の同時多発テロの後、首謀したアルカイダの最高指導者ビンラディンを匿っているとして、タリバンをターゲットに、欧米諸国によるアフガニスタンの空爆が始まった。隣国のパキスタンでも、対アフガニスタン政策に起因する混乱が起き、テロが相次いで治安が崩れることになる。

僕は当時4歳だったので、9.11がどれほどの大事件だったのか当時は知る由もなかったが、アフガニスタンやパキスタンの運命を大きく変えてしまったのは事実である。パキスタンが20年もの間、少しずつではあるが治安の向上に尽力してきたおかげで、今こうして訪れることができているということに思いを寄せながら、目の前の景色を眺めているこの瞬間を深く心に刻んでいた。

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