翌朝、窓に差し込む光で自然に目が覚めた。すでに日は昇り始めている。慌てて毛布を払いのけ、宿の屋上へと駆け上がった。
日の出の瞬間には間に合わなかったものの、雪山の頂に当たる光が、徐々に山肌全体を照らしていく様子を眺めることができた。自然が織りなすこの壮大な光のショーを見ていると、今日が特別な一日になるような気がした。

今日はフンザを出発し、カラコルムハイウェイをさらに北上してパキスタン最北の町スストに行き、その日のうちにギルギットまで戻る予定だ。
この辺りの標高は2,500mをすでに超えており、気温は氷点下。指先の感覚が薄れ、体の芯まで冷え切るのを感じた。靴底を突き抜けるような寒さに、ユニクロの薄いダウンジャケットとニット帽だけでは到底足りなかった。
宿を出発したが、車内の暖房はほとんど効いていなかった。いや、効かせられなかったと言うべきかもしれない。
パキスタンでは深刻なインフレが進み、ガソリン価格が1年で2倍に跳ね上がっていた。訪れた当時は約1ドル/Lと、パキスタンの物価は日本の5分の1程度だが、ガソリンだけは日本並みの価格だった。ドライバーが暖房のつまみを絞る様子から、少しでも節約しようという気持ちが伝わってくる。実際、過去の旅行記を参考に調べたタクシーの相場も、この旅では全く当てにならなかった。ガソリン価格の高騰に伴い、運賃が大幅に上がっていたのだ。
標高がさらに上がり、寒さが厳しくなることを心配していたが、日が昇るにつれ車内は少しずつ暖かくなり、不安も和らいでいった。
やがて最初の休憩地であるアッタバード湖に到着した。湖はまだ陽の光に照らされておらず、水面は深い青に染まっていた。

アッタバード湖は、2010年に発生した大規模な地滑りで、川がせき止められたことによってできたもので、15年前には存在しなかった湖である。この地にあった村とともにカラコルムハイウェイが水没して一時は道路が無くなったが、中国主導で建設されたトンネルにより、2015年にカラコルムハイウェイは再開通することとなった。そのトンネルはPAK-CHINA FRIENDSHIP TUNNELと名付けられている。この地域のインフラは、中国の恩恵を多大に受けている。


現在は冬季でオフシーズンだが、夏には避暑地としてパキスタン国内から観光客が多く訪れるそうだ。湖ができて以来、湖畔にリゾートホテルも建設された。水上にはウォーターボートが数多く浮べられていた。
「船に乗ってみるか?」と聞かれたが、寒さでそれどころではないためお断りした。当然誰も乗っている人はいなかった。

ここで朝食を取ることになった。
街は閑散としており、開いている店は1つだけだった。とにかく体を温めたいと思い、卵焼きとチャイ、そしてチャパティのセットを注文した。冷えた身体に熱いチャイが沁みて生き返る。
食事中、店に入ってくる野良猫を足で蹴って外に追いやる店員を眺めていた。資源が乏しく環境が過酷な冬をこの猫はどうやって生き伸びているのだろうか、そんなことを考えていた。

道中、小さな集落をいくつも通過した。このエリアはゴジャール、または上部フンザと呼ばれ、数世代前にアフガニスタンから移住してきたワヒ族が多く住んでいる。イスマーイール派の信仰が根強い地域でもある。
ドライバーのアシュラフは、車内でインドの音楽を流していた。パキスタンの公用語であるウルドゥー語と、インドのヒンドゥー語は、文字こそ異なるが、元となる言語が同じため語彙がよく似ている。そのため、パキスタン人でもインドの音楽を楽しむことができる。実際、パキスタンのSpotifyランキングを見ても、インド人アーティストが上位を占めていた。長年戦争をしている両国だが、音楽に国境はないのだと実感した。

やがて吊り橋に辿り着いた。どうやら世界一危険な吊り橋と言われている橋らしい。
橋の下を流れるフンザ川は、日光に照らされて澄んだターコイズ色に輝いていた。バックには先端に氷を纏った険しい岩山が連なっていた。



吊り橋の次は、氷河が有名なパスー村に立ち寄った。目の前に広がる氷河の先端には、標高7,700m近くに達する峰々が連なり、鋭く尖った岩山がそびえ立っている。山の斜面は長い年月をかけて削られ、土砂や岩が扇状に堆積していた。この景観が生まれるのにどれほどの時間がかかったのだろうか。圧倒的な自然の造形に息を呑んだ。


しかし近年、気候変動の影響で氷河の融解が急速に進んでいるという。その結果、川の水量が増加し、橋や家屋、発電所が流される被害が相次いでいる。パキスタンは、北極と南極を除けば世界で最も多くの氷河を有する国だ。その氷河が崩壊することは、国全体に甚大な影響をもたらす。
近くの池の水面に反射する雪山を眺めていたところ、バイクに乗る住民に話しかけられた。
「日本人か?20年前までは日本人もここにたくさん来ていたんだよ。今では全く見なくなったが」
こんな最果ての地を日本人が訪れていた時代があったとは驚いた。観光客が減った理由はなんとなく想像がついていた。
「9.11の後からだよ。人がこんなに減ったのは。」
2001年の同時多発テロの後、首謀したアルカイダの最高指導者ビンラディンを匿っているとして、タリバンをターゲットに、欧米諸国によるアフガニスタンの空爆が始まった。隣国のパキスタンでも、対アフガニスタン政策に起因する混乱が起き、テロが相次いで治安が崩れることになる。
僕は当時4歳だったので、9.11がどれほどの大事件だったのか当時は知る由もなかったが、アフガニスタンやパキスタンの運命を大きく変えてしまったのは事実である。パキスタンが20年もの間、少しずつではあるが治安の向上に尽力してきたおかげで、今こうして訪れることができているということに思いを寄せながら、目の前の景色を眺めているこの瞬間を深く心に刻んでいた。

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